会長先生の経巻説法「無量義経十功徳品第三」

●号数・発行日 1号 昭和39年4月1日
●題    名 会長先生の経巻説法「無量義経十功徳品第三」
●筆    者 故初代会長 飯島将吉

 毎号、会長先生にお願いして経巻説法を連載させて頂くことになりました。これは学者先生の解説とは違って、飯島会長が長年の“行”を通じ体得されましたところの説法でありますから、決して単なる字句の解釈ではありません。われわれも及ばずながら、お互いの“行”を通じて、その真意を体得するようにありたいものです。

◎無量義経十功徳品第三
「未だ発心せざる者をして菩提心を発さ令め」未だ発心せざる者というのは、まだ法華経を持たぬ人のことであり、菩提心を発さ令めというのは、先祖の尊いことを悟らせて、法華経をもって供養させるようにすることです。
 「慈心無き者には慈心於起こさしめ」自分勝手のことばかり考えている者に他に対して、情深い心を起こさせることをいうのです。
 「殺戮を好む者には大悲の心を起こさしめ」殺戮を好む者というのは何も殺し合いが好きな者ということではなく、犯罪とされて、手が後ろに廻らぬ限り、何でも善しとして平気で行っている人のことをいうので、そういう人に悔い改めさせることが大悲の心を起こさせるというのです。
 「嫉妬を生ずる者には随喜の心を起こさしめ」ねたみの強い人に、そういう心をなくさせて、あべこべに随喜の心すなわち善いことは自分も真似してやろうという心にさせることです。
 「愛著ある者には能捨の心を起こさしめ」これがほしいとなると、犯罪までおかす人がいますが、そういう人に、気持ちよく、心掛けよく、そういう心を捨てさせることをいうのです。そんなに無理をしないでも、自然に自分のものになるまで待とうという気持ちをおこさせるということです。
 「諸々の慳貪の者には布施の心を起こさしめ」慳貪の者というのは、自分のことっきり考えない者、ただ自分だけ有難がって御経だけ上げて導引きをしようともしない心のことをいうので、布施というのは字の如く、布の如く施すことで、布、丹物をするするとひろげるように、人を救う、導引こう、法を与えてやろうとすることです。
 「憍慢多き者には持戒の心を起こさしめ」何でもオレがという心を自分で自分の心をおさめ、戒めなさいということです。
 「瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ」人にちょいといわれてもすぐ腹を立てる人がある。たとえ悪いことをいわれても忍耐しなさい。人に悪たれても、馬鹿といわれてもケンカする必要はないのです。
 「懈怠を生ずる者には精進の心を起こさしめ」商売を怠けても懈怠、法華経の精進を怠けても懈怠なのです。
 「諸々の散乱の者には禅定の心を起こさしめ」下駄の脱ぎ方の乱暴な者、あちこちまとまりのない仕事をする者も散乱なら、法華経を行じながら信者まわりもしたり、しなかったりする者も散乱です。禅定とは、決定の心、堅固な心で何時も平らかに行ずることをいうのです。
 「愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ」月給取りが三万円しか貰えないとしたら、足りなくても何でもそれでやってゆかねばならない。ちゃんと計画を立てて、それを日に割って生計を立ててゆくという頭を働かせねばならない。法華経の行者は、いかなることにもブツブツいわず、頭を働かせてやらねばならない。
 「未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起こさしめ」説法をしたり、行じたり相手にもそういう心を起こさせる。ああいう真似、行いを致しましょうという心に一人でもさせることが「彼を度した」ことになるのです。
 「十悪を行ずる者には十善の心を起こさしめ」十悪というのは犯罪になり、手が後ろにまわるようなことではない。人には毎日、いろいろな仕事をしていても、すぐ十ぐらいの悪いことをやってしまうものです。それを逆に、何とかいい行をしようという心にすることが十善の心を起させることです。
 「有為を楽う者には無為の心を志さしめ」自分の楽しみきり考えない人がある。そういう人にそんなことを考えるのは無駄なことだということを悟らせるのです。
 「退心有る者には不退の心を作さしめ」退心というのは、たとえば導引に行く場合に、今日はもう遅いから明日にしようとか理由をつけて延ばすようなことをいう。そうじゃなく思ったことをすぐ実行に移すのを不退の心という。
 「有漏を為す者には無漏の心を起こさしめ」競馬だとか麻雀だとか勝負ごとの好きな人があるが、そういう者にも、自分勝手の強い心を捨てさせることをいうのです。
 「煩悩多き者には除滅の心を起こさしむ」煩悩というのは誰にでもあるもの。百八ッまでは善しとされているものだが、これを毎日、千にも二千にもしてしまうのが人間だ。酒も一合でいいものを、二合、三合と重ねる。あるいはまた親は、子供が二十五才にもなると自分は楽が出来るとすぐアテにする。しかし子供が病気にでもなるとアテがはずれてしまう。そういうものも煩悩という。
 「善男子」というのは、真の法華経を持つ者のことをいう。これ以外に善男子には必ず不思議の力が授かる。人の顔を見ただけで、その人のことが判り、他の法座の前に坐っただけでもその家のことが判ってしまう。そういう人にいえぬ不思議の力を授かるのです。

 この無量義の教えを三年間完全に出来れば、お経を上げなくても、菩薩になるとされている。
 この三番の経巻は、法華経行者が必ず心から行なうべき根本のものである。
 それでこそ人となる最初であると心掛けなさい。
 菩薩なぞと言っても遠いことです。お互いにまず人となることです。その如く努力精進することです。

(一部の語句、書式等を変更しています。)


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