■【旧】会報第5号「閻浮提に弘宣流布せよ - 独善を捨てて菩薩道に」

● 号数・発行日 第5号 昭和42年1月25日発行
● 題 名 閻浮提に弘宣流布せよ
● 副 題 独善を捨てて菩薩道に
● 筆 者 飯島将吉

 だんだん世の中が荒れてきて、人を殺したり、飛行機が墜ちて何十人の死者を出したり、または地震がある。悪魔の働きが強いというけれど、皆はちっともよけようとしない。最近もある導師の息子が十三歳で死んだ。ふだん心臓が弱かったが、医者の手当ても間にあわなかった。精進しろよ、といくらいっても誰でも幸福でいる時は精進しないで怠け放題。怠けていては会社に入って月給はもらえない。亭主の用をしない女房は追い出される。女房は女房の役をしなければいけない。何か事があると、私は山(御山修行)に行きましたというが、山へ行かなくともいい。(精進していない者に)私は行ってもらいたくない。ふだん徳を積んで、あらゆる精進をして、残った因縁に成仏してもらうために行くのがお山の修行です。
 
 この希心会は充分功徳を頂けるのだけれど、目の前が幸福になると、何もしなかったり、お経も上げなかったりして、怠け放題怠けている。二千万円や三千万円の財産家になっても遊んでいては食べて(無くなって)しまいます。導師が御守護神を頂いても、御守護神を頂いただけで精進しなければ導師じゃない。神を飾り物にしている。それだけでは守られるはずがない。それをやりもしないで愚痴をいっている。はっきりいいますが、そんな人はやめてもらいたい。法華経に傷がつく。先の子供に死なれた導師にしても、世間の人はあの家はお宮まで祀っていても、生命までとられるという。その家は、五、六年前に二十万円もする乳牛が死んだことがあった。牛は金で買えるけれど子供の生命をとられたらどうする。金では買えないよ、まだ大きなことが生じるから精進しなければならないと、こんこんと諭してやったが、やらなかった。功徳が頂きたかったら、しっかりやってもらいたい。
 
 どこの会でもお賽銭を上げさせたり、寄付をとったりしている。わが希心会は皆さんにお賽銭も上げさせない。それでもあなた方は有り難いと思わない。有り難いと思ったら、一生懸命導引いて徳を積むのです。私の会は導引きだけなのだから、寄付だと思って電車賃やバス代を使って信者を回り、また一週間に一度でも手紙を出すなり、近い所は月に四、五回ぐらい行きましょう。

【菩薩道を悟れ】
 経巻の中には諸々の雑華経の中に、この法を説くとある。雑華経とはつまらぬ雑草のようなもの。世の中の様々な、いい加減な宗教のことをいう。そういった中でこの法を説くというのは、二なく三なく、ただ一道のこの法華経を説きなさいというのです。ただひたすら徳を積む。(法華経には)衆生を救わんがため無量の神力を現じ給うと書いてある。どうぞ一心にやってもらいたい。他人の先祖を拝むのではない。自分の家の代々の先祖を拝むのです。どなたにも先祖はある。お経も上げず、甚だしいのは過去帳も二、三日前のままのもある。人の子でありますから親の供養をしない者は親不孝です。どんな子にでもお父さんお母さんは一番優しい、一番いいものです。あなたがたが守ってくれといわなくても、守ってくれる。それなのにお経も上げない。そんなことでは本当の守護があるはずがない。自分達は三回の御飯を忘れずに頂いているはずだ。
 
 この経は閻浮提の病の良薬なりと書いてあるが、亡くなる人は四百四病の病気だけじゃない。山や川で死んだり、殺されたりして死んでいる。神奈川県だけでも三面記事に載せきれないほど毎日事故がある。それだけ悪魔が働くのです。あなたがたは、自分の災難をよけられたら人を救ってもらいたい。他の人の災難もよけられるためにこの経が出ている。人が人を救うのは楽ではない。その報酬に功徳が頂けるのです。自分ばかりやって、広宣流布しないのは、自分ばかりよければいいとしている独善寂(自己の悟りを得ること、功徳を得ることに専念し、他人を救わない者)です。それを二乗(声聞・縁覚のこと)といいます。導引いて各家庭を救い、先祖から守られているのは、これを菩薩道といいます。この法華経は諸仏のお住まいになっている中(菩薩の室宅)から世の中に出てくる。そして菩薩道を行じていると、そこへ神仏が必ず守護して、病気災難をよけさせてくれると無量義経の三番に示されている。
 
 皆さんはお経を上げていながらお経を会得しない。なぜ会得しないかと言えば、大きな声で上げるならいいが、小さな声でグジュゴジュいったって解らない。一切衆生を救うというが、それでは神も先祖も迷惑しています。ゆっくり、神、先祖にわかるように、はっきり十二分に上げるなら、いくらでも守護して頂ける。経巻の中には、世の中が悪くなる、因縁が生じると書いてある。病気災難が因縁だ、これが因果というものかと会得して読経して行じなければいけない。行じるということは、たとえば学生は良い答案を出せば、学校を優秀で出られるが、学校で覚えたことを娑婆で行わなければ本当に優秀とはいえない。
 
 皆さんは、よく導引きにゆくと、嫌いだといわれるから導引けないという。嫌いだというのは当たり前、わからないからいやだ、嫌いだといっているのです。だから、二度三度と行ってわかるようにして救って上げるのです。艱難辛苦して救い上げてもらいたい。導引くとは人を救うことで、先祖の方々がそれに報いて、導引いた人の先祖と、導引かれた人の先祖が合体して子孫を守ってくださる。この導引く德を積まなければ絶対的に功徳は無い。わかってきたらドシドシ導引きさせること。導引くとその日から守られる。導引かれた先祖は、ありがとうございます、成仏出来て尊い経巻を聞いて、苦難苦闘していた先祖も救われて、どうも有難う、お世話になりましたと守りだす。
 
 この間、どこの支部の信者であったか、主人が肩張りで、毎晩千回も叩かなければ寝られなかったのが、入会してから祀り込みもしないのに、その日からぴたっと治ったと喜んでいた。どこの会でも同じだという人がいる。経巻はどこの会も同じだが経巻が功徳をくれるのではない。経巻の中に教えられているとおり、説の如く修行してこそ功徳が頂けるのです。閻浮提とは、世界各国をいうのです。日本人だけに功徳があるのではない。印度でも中国でも朝鮮でも、どんな外国人でもやれば功徳はある。一切衆生に及ぼすとはそういうことなのです。どうか、そのつもりで、この法華経を広宣流布して頂きたい。
(一部の語句、書式等を変更しています。)


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