■【旧】会報第4号「人を救って救われる 現の果報は願わずとも来る」

●号数・発行日 4号 昭和41年10月1日
●題    名 人を救って救われる 現の果報は願わずとも来る
●筆    者 初代婦師

 ある信者で、自分の子供が肺炎で危ないという重態で二日半をつきっきりで看病して、もう駄目だという時に、その導引きの信者から子供が病気で危ないからすぐ来てくれと言ってきた。主人は、その信者の家へ供養にゆけば自分の子供の死に目にあえないかもしれない、どうしようかと迷っていたところ、奥さんが、これだけ看病したのですから、たとえ留守に死んでも思い残すことはないでしょう。先方の信者の子供が可哀想ですから行ってあげて下さい、というので、そうかということで、相当離れた所ですが行って、一生懸命に身体供養をしたところ、段々顔に赤味がさしてきて、もうこれで心配ないという程度に持ち直してきた。そこで、自分の子供はもう死んでいるものと思いながら帰ったのですが、信者の子供が治ると同時に、自分の子供も完全に治っていたということがありました。これはどういうことを教えられているのでしょう。自分のことのみにとらわれず、まず他の人を助けておけば自分の家も幸福になるということを目の前に見せられておるのです。我が家に幸福を受け、また災難のないようにするには、我が身を捨てて、多くの方々をこの正しい法華経に導引いて、共に供養し、救われるように教えてあげることが第一です。

 また、ある肺炎の子供が重態で、部屋を締め切って蒸気をあげたり、いろいろと手を尽しても助からないという所まできていて、会長の教えをきいて、二、三日の間に先祖を三百名集めなさいと言われたので、一生懸命で一日半で先祖を集めたらその子供の呼吸も段々に良くなり、たちまちの間に全快して参拝に見えた。これは病気になってから先祖を集めたのですが、何時も言われるように、日々に一人も多く先祖を集めて供養したならば先祖は必ず守って下さる。

 この二つの例をみてもわかるように、導引き先祖を救って供養なされば必ず功徳力を頂ける法華経です。我が身の幸福を願わない者はいないと思います。それならば、まず他の人を幸福にさせてあげるように努力してはじめて自分も頂けるのです。まだ若いと思って先が永いと思っているかもしれないけれども、門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなしで、お目出度うと言う間にも一刻一刻年をとる方へ近づいている。また明日の生命もわからない。譬喩品にある如く、みんな遊びたわむれている状態というのは、温泉にゆく、遊びにゆく、踊りをする、先祖の供養もしないでたわむれている。そして病気や事故をして家の者に苦労をかけることになる。如何に科学が発達しても命を延ばすことはできないが、導引き功徳を積んでゆくならば、必ず助かって寿命も延して頂いている者が沢山いる。お互いに欲は誰でもある、私達でもうまい物を食べたい、面白いものを見にもゆきたい、温泉にも行きたいという心はチョイチョイでてくる。それをおさえて、衆多の衆生を救わんがため、たとい一口でも説法しよう、心の汚い者をきれいにさせて頂こうと、そして大きな功徳を頂き、各自の家庭を円満にして宝を頂かんがために日夜努力をしているのです。あれこれと愚痴を言うのを捨てて、只々世の中の苦労している、悲しんでいる、貧乏している人を救ってこそ、私達は現の果報を得るということになります。

 良い事をすれば良い報いがくる。悪いことをすれば悪い報いが必ずその一生にくる。娑婆においてくるのは当然と思って、私達は心に留めて良いことを一つ宛残してゆかなければなりません。人の悪口を言うべきではありません。人が言うのを見たり聞いたりしたらそれを反省して、己がその真似をせずにやってゆこう、正しくやろうとなされば、その人は立派なこと。あまり聞苦しいことを聞いた時には諭して上げるのが私達の使命です。それには一人一人、法華経に導引いて、正しい人をつくり上げてゆくこと、そうすればあの人に救われた、あの人のおかげで病気が治ったと良い思いを貰えるから自分の寿命が延びます。如何に苦労が多かろうと法華経を真に悟って、行法経を悟って功徳を積んで行ったならば、功徳力を頂けるのが法華経です故、お互いにしっかり行じて下さるようお願いします。
(一部の語句、書式等を変更しています。)


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