■【旧】会報第2号 会長先生の経巻説法「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品 第二十八」

●号数・発行日 2号 昭和39年5月1日
●題    名 【連載] 会長先生の経巻説法(2)
●筆    者 故飯島将吉

 毎号、会長先生にお願いして経巻説法を連載させて頂くことになりました。これは学者先生の解説とは違って、飯島会長が長年の≪行≫を通じ体得されましたところの説法でありますから、決して単なる字句の解釈ではありません。われわれも及ばずながら、お互いの≪行≫を通じて、その真意を体得するようにありたいものです。

◎妙法蓮華経普賢菩薩勧発品 第二十八
 普賢菩薩が言われるには「後の世において」すなわち法華経が世に出た時に、この法を真に行ずる者は、衣類や夜具や飲食、あるいは日常の生活物資などには一切気をとられないし、また人がどのようなものを身につけ飲食しようと気にもしないし、またそれについてつべこべ言わない。それが「貧著せじ」と言うことです。

 そしてそういう綺麗な心で行ずるならば、いかなる願いも叶えて頂ける。また現世に、この世でその福の報いが頂ける。

 もし、人がこのように法華経を行じている者のことを「軽毀して言わん」すなわち馬鹿にして「お前は狂人のような者だ。何にもならんことをやっている」こういうことを言う者の罪の報いは「世世に眼なかるべし」で、つまり世世とは法華経が世に出る度に、その者が何度この娑婆に出てきても、この法というものが本当に正しいということを見る眼がない、ということなのです。「眼なかるべし」とはそういう意味なので、盲(目の不自由な人)になるということではない。

 それに反して、法華経を「供養、讃歎」すなわち心から喜んで行ずる者は、現世においてその良い報いを受けることが出来る、ということです。

 しかし、もしまた法を持ち行ずる者の「過悪を出だす」というのは悪口を言う者は、「若しは実にもあれ不実にもあれ」すなわち判らずに悪口を言ったとしても、癩病となるぞと言うことである。

 また「若し之を軽笑する」とは小馬鹿にしてせせら笑う者は、歯が抜けたり、口唇烈や鼻べっちゃになったり、手足が中気(麻痺すること)にふるえ、眼つきが悪くなり、身体から悪臭が生じ、悪質の吹出物や腹がふくれたり、とにかく諸々の悪性の重病に苦しむようなことになる。

 従って、普賢菩薩の言われるには、法華経の行者に対した場合は、「当に起(た)って」すなわち心から起ってこれを迎えること、丁度諸仏諸天を敬うと同じような心をもってせよ、ということなのです。
 
 普賢菩薩という方は、この娑婆に出られた時は、木花之花咲爺姫と言われ、霊界に還って富士浅間大神、菩薩となって普賢菩薩と言われるのです。
 一切経の最後に仏説観普賢菩薩行法経があり、懺悔経とも言われますが、その中に説かれているような教えをその如く行った方なのです。

 懺悔経のなかに『普賢菩薩は乃ち東方の淨明国土に生ぜり』(一部経の392ページ)とあるとおり、釈尊の教えは中国本土から韓国そして日本へ次第に東に向かって(印度からみて)広宣流布されてきたのですから日本のわれわれが法華経を行ずる場合、普賢様を祀ることは深い意味があるのです。従って、普賢を祀り、普賢の行を行じてこそ真に法華経を行ずることになるのです。

(一部の語句、書式等を変更しています。)


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