平成29年 清澄山祈願参拝下山祝賀説法会 会長説法



 今年の希心會清澄山祈願参拝も、各支部無事祈願の順序を賜り、大神様、支部神様、そして修行に行かれた導師、信者の皆様の行に感謝致します。修行をさせて頂いた清澄寺ではいつも「毎年修行に来られることに感謝します」と言われます。しかし私達希心會の会員は、御山修行は年々の行事でないことを知っています。

 正月三日の御指導では、大神様から「毎年修行人数を減らして、どうして御山修行を願い出ることができるのか?」と厳しい問いがあり、各支部長が人員達成の約束をした上でお許しを頂きました。日蓮上人が「約束と申す事はたがへぬ事にて候」と言われているように、神様に、そして自分自身にした約束は守らねばなりません。修行終了後の御指導では「皆の祈願は受け取った」と御詞を頂きました。「春は祈願の御山、秋は祈願成就の御山」と言われますが、今回の御山修行での願いを成就するには、身延七面山の修行に行かねばならないのです。

 さて、先日お釈迦様の最後の旅に関する本を読みましたが、その旅はインドの王舎城にある霊鷲山から始まっています。私達が日々あげている「法華経」もこの霊鷲山で説かれています。「最後の旅」には霊鷲山を下り、クシナーラーという土地で入滅されるまでの約200㌔に及ぶ徒歩の旅のことが書かれています。お釈迦様は、最後まで修行の旅をやめなかった。悟りを開き「完成した」といわれる者でさえその歩みをやめなかったのは驚くばかりです。
 
 一方私達はなぜ日常生活を離れて修行に行くのでしょうか?なぜ皆さんは今回希心會の修行に行かれたのでしょうか?仕事を休み、費用を払い、日々の生活で疲れた身体を引きずって修行に行かれたのはなぜでしょうか?私は、修行という信仰の旅は「自分と自分の心に向かいあうことができる旅」だからではないかと思います。そして、希心會の御山修行を体験すると、気持ちが、身体がすっきりしてリフレッシュでき、良い「順序」がつくからだと思います。希心會では「正しい願いを念じ、正しく行をすれば、正しい順序がつく」という実例が本当に多いのです。しかし、その条件は「正しく」であり、「自らが行う」ということが必要です。私たち一人一人の因縁洗浄は、その人しかできないのです。今年も生後間もなくの赤ちゃんから、101歳の方まで修行に来られましたが、赤ちゃんだろうが101歳だろうが、皆無限の過去世をもっているので、その因縁洗浄は他人ではなく、その人その人が行わなければならないのです。
 
 今回の清澄山の修行でも大雨の支部があり、日照りで酷暑の支部があり、強風で凍えるような支部もありましたが、どんな天候でも、導師からは「皆さん満足して帰られました、また来ますと言っていました」と聞くことが多いです。やはり自分が行くべき修行の日に、自分自身で行ができたことで、それぞれの過去世の因縁成仏ができたからだと思います。御山修行を終えた皆さんのお顔は、本当に晴れ晴れとしています。でも、日々の生活では新たな因縁が生じますので、また修行に行くことが必要になるのです。
 
 皆さんが修行時に着た行衣の頭陀袋の頭陀は「塵を払い落す」という言葉からきており、頭陀行は「少欲知足」に徹して世俗の塵を払い落す行だと言われます。私たちは御山修行に行って少欲知足の行をし、世俗の塵を払い落すことができたでしょうか?それは、修行に行った一人ひとりの心でしかわかりませんが、霊界はしっかりとその心を見ています。私は、今回修行に行った方は、多少の差はあれ世俗の塵を払い落せたと思います。自ら、正しく修行を行えば、「如来神力品」にあるように「日月の光明の能く諸々の幽冥を除くが如く…」という様に、心がぱっと開けるような功徳が必ず頂けるはずです。ぜひそのきれいな心身を維持し、願いを、祈りを成就すべく、一人でも多くの方が功徳を頂けるよう、皆さんの周りに声をかけ、できるだけ多くの方々が秋の修行に行って頂けるように、どうぞ今日からまた精進をお願い致します。


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